W.A.Grootaers


カトリック教会の司祭で方言学者
(1911年5月26日-1999年8月9日)
Willem A.Grootaersはベルギー生まれのカトリック司祭(神父)で方言学者。中国と日本で方言研究を行い特に日本の言語地理学の発展に寄与した。中国名は賀登崧
受賞歴・叙勲歴
勲三等瑞宝章(1984年度)
レオポルド勲章シュヴァリエ章(1988年)

生い立ち


司祭に叙階まで
May 1911 - 1938
聖職者への道

1911年にベルギー南部のナミュール(フランス語圏)で6人兄弟の長男として生まれる。父Ludovic Grootaersはオランダ語を母語とする言語学者で、オランダ語・フランス語辞典の出版で知られている。母はフランス語を母語とし、家庭ではフランス語を使用していた。当時高校の教師をしていた父Ludovicは息子をバイリンガルにするため、自ら進んでベルギー北部のオランダ語地域の学校へ転勤し小学校2年の以降はオランダ語のみを使用する小学校へ通わせた。
12歳の堅信の日に聖堂で祈っていた時にイエスの招きを心に感じ1930年19歳でアルロン市にあるイエズス会修練院に入会するが、1932年に淳心会に移る。漢文や方言地理学を学び1938年に司祭に叙階。

中国で布教活動
Oct.1939 - 1949
カトリックの宣教師

1939年中国へ派遣。日本の傀儡政権下の北京で中国語会話を学ぶ。同時に周殿福に音声学の指導をうけた。
1941年から大同でカトリック系の小学校の校長をしつつ村々をまわって方言や民族を調査していた。
1943年に日本の憲兵に逮捕され山東の収容所に入れられたのち、終戦まで北京に軟禁された。 1945年9月に北京輔仁大学の教授となる。大学の講義をしつつ方言と民間信仰を調査すると言うプロジェクトにも参加したが、国共内線が激しくなるとベルギーの本部の命令で1959年に帰国した。
その間に中華人民共和国が成立して再入国ができなくなった。

日本への道


日本に渡る
1950 - 1999
司祭であり言語学者でもある

1950年に日本に渡った。姫路の日本語学校で半年間日本語を学んだあと、兵庫県豊岡市の豊岡教会に赴任。
1955年東京に松原教会ができると東京に移る。間もなく、言語学者柴田武の誘いを受け日本の方言調査の予備調査の段階から加わることに成る。同じ年東京都立大学の平山輝男教授の講義に聴講生として出席。その後教授から都立大学講師のポストを与えられ15年間講師を務めた。これがきっかけで後に天理大学、上智大学、法政大学、清泉女子大学などで「言語地理学」を教えることができた。
1981年ルーヴェン大学の名誉博士号を取得
1984年秋 勲三等瑞宝章を授与される。
1999年8月東京で死去 目はアイバンクに登録してあった。

言語研究
Oct.1939 - 1999
方言学者として

一時期信仰生活と学問の両立に悩んだ時期もあったが、キリストに使えることと、世界の進歩のために働くことは矛盾しない。学問の精神を広げることは神の国を広げることと思って過ごすようになる。
中国では1941年から1943年にかけて言語調査を、戦後の1947年と1948年に方言と民族の調査を行った。この時の研究はいくつかの論文にまとめられているが、1990年代に相次いで日本語訳がまとめられた。

  • 「中国の地方都市における信仰の実態:宣化市の宗教建造物全調査」1993年五月書房
  • 「中国の方言地理学のために」1994年好文出版
  • 日本での言語研究では国立国語研究所による「日本言語地図」作成に準備段階から参加しした。自ら方言調査を行うかたわら、多くの大学で言語地理学の講義を行い戦後の日本の方言研究に言語地理学的手法をもたらした。
  • 日本の方言地理学のために(1976年平凡社)
  • 方言地理学の課題(2002年明治書院)はグロータース追悼記念論文集

  • エッセイストとしても



    「糸魚川言語地図」は上巻(1988),中巻(1990),下巻(1995)の全3巻。巻毎に地図集・解説編・英文解説編・データ集の4冊で構成。そのうち英文解説編を担当した。

    糸魚川言語地図出版(上)祝い
    糸魚川言語地図出版(中)祝い