文乙のクラス30人のうちに 3人東京出身者がおり,このとき初めて東京語(標準語)を直接耳にした。クラブ活動の一つとして椎尾詷という数学の先生が主宰する八高ローマ字会に入り、ローマ字運動を始める。ローマ字会に1年先輩の日下部文夫がいて大学に言語学科という学科があり「言語学」という学問のあることを教えられる。
服部四郎(蒙古語学)、橋本進吉(国語学演習)両先生のきびしい指導と強い影響を受ける。戦争中の繰り上げ措置で時期外れの時に卒業
東京帝国大学卒業後文学部副手を経て助手になり戦後連合国軍総司令部民間情報教育部(CIE)の専門技術官に任ぜられ、読み書き能力調査に従事し1年後に成果をまとめる。この時統計学の林知己夫らを知る。その後創立間もない国立国語研究所の所員となる。話ことば研究室に属しいわゆる「言語生活」の社会的・統計的研究を共同調査の形で行う。話ことば研究室から地方言語研究室が分離しその主任となる。
国立国語研究所の地方言語研究室主任になった1955年地域社会における共通語化についてその要因分析を全国調査と統計的処理で行う目的で方言の地域分布を調査することに成り「日本言語地図」作成のための調査準備を始める。この年に東京の松原教会に赴任してきたベルギー人の神父W.A.グロータースに研究員となってもらい、中国で方言調査研究の経験があるグロータース神父に調査方法のアドバイスをうける。